一本のボトル


長田裕之 Hiroyuki Osada
理化学研究所・環境資源科学研究センター




20世紀を代表するマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」は、主人公が、紅茶に浸したマドレーヌを口にした途端、幼少時代の記憶が蘇ったことで始まる数千頁にも及ぶ長編小説である。私も、昨晩、赤ワインのコルクを抜いた途端に様々な記憶が蘇ったが、この巻頭言では1頁にまとめなくてはならない。
 私が中学生の時に読んだ「世界の酒」(岩波新書)には、農芸化学者の坂口謹一郎(元・東大教授)が世界中の銘醸地を巡って、美酒と当地の名物料理に舌鼓を打つ、そんな夢のようなことが書かれていた。世界の美酒という安直な理由で醗酵学に憧れて、私は農芸化学(微生物化学)の道に進んだが、その夢が叶ったのは、ずっと後のこと。2003年の春、フランスのストラスブール大学(ルイ・パスツール大学)に客員教授として1カ月間の招聘を受けた。講義やセミナーのノルマは少なかったので、日本の生活とは違って、ゆったりした時間を送ることができた。週末にワイナリーやレストランで様々なワインを飲めたのは嬉しかったが、フランス人は平日でも優雅にワインを飲みながら、食事しているのだった。フランスでは、2000年に定められた法律で労働時間が週35時間になったのだった。彼らが、労働時間が短いにもかかわらず、質の高い論文を出せるのには、ワインを飲みながらの知的会話が関係しているのか?などと想像していた。
 実際に、大学の名前にも冠されているルイ・パスツールは「Il y a plus de philosophie dans une bouteille de vin que dans tous les livres.(一本のワインボトルには万巻の書物以上の哲学が存在する)」という言葉を残している。仲間とワインの栓を開ければ、ワインの香りとともに、様々な思いや言葉が辺りに漂う。プルーストではないが、香りは、記憶や感情だけでなく、想像力も創造力も刺激してくれるようだ。ラベルに表記されているヴィンテージやシャトー名は、その年の出来事や天気、土地柄など様々な話のきっかけとなり、ロマンが広がる。ワイングラスを持ちながら語り合うと、本では得難い生きた知識情報を得ることができる。
 良質のワインは、10年20年と熟成を重ねて、味わい深くなっていく。我々、日本化学会会員は、先人の残した素晴らしい伝統を受け継いで、新しい道を拓いて行かなければならない。10年20年先まで見据えた長期的展望を持つことが重要だ。先人が残したボトルを消費するだけでなく、長期熟成で劣化することなく輝きを増すボトル(人材?研究成果?)を後世に残すには何をすべきか考えなければならない。

(化学と工業 2018年 巻頭言)