化学と生物学の融合を目指して: ケミカルバイオロジー


化学と生物学の融合を目指して: ケミカルバイオロジー
Aiming for the fusion of chemistry and biology: Chemical Biology

理化学研究所・主任研究員 長田裕之


ケミカルバイオロジーの背景
 生化学(Biochemistry)の夜明けは、1832年に最初の酵素ジアスターゼが発見されたことを契機として、19世紀に隆盛となった醗酵の謎解きにまで遡ることができる。生化学の進歩に伴い、生体を構成する蛋白質、核酸、糖や脂質などの機能を分子レベルで理解することができるようになった。一方、化学生物学(Chemical Biology)という言葉は、1990年代にHarvard大学のS. Schreiberらが使い始めて、世界中に広まった。初期ケミカルバイオロジー研究の典型として、免疫抑制剤FK-506の作用機構研究があげられるが、低分子有機化合物FK-506の結合蛋白質同定を出発点として、免疫担当細胞内のシグナル伝達機構を解明した。端的にいえば、生化学が生物現象を出発点として生体分子に辿り着くのに対して、ケミカルバイオロジーでは、その逆の道筋(化合物を出発点として生命現象に到達)をたどることになる。
また、遺伝子の発現機構の解明を目指した分子生物学は、1950年代に物理学者が生物学に参入して始まった。この流れは、ヒトゲノム解読という巨大科学に発展し、多くのバイオ産業を生み出すとともに、現代人の世界観を変えるほどのインパクトを与えている。他の学問領域でもそうなのだが、「見たい、知りたい」という好奇心から基礎研究が始まり、研究が進むにつれて、「制御したい」という工学的研究、さらにはプロジェクトに進展する。分子生物学からゲノム科学への流れは、その典型例であり、親から子へ伝えられる遺伝子の構造、配列がどうなっているのか?という疑問から研究が始まり、大規模なゲノム解読プロジェクトを推進するための技術革新がもたらされた。すなわち、新しい遺伝子解読技術、機器開発が行われ、その成果は多くの産業に役立っている。

ケミカルバイオロジーの方向性
 我が国では、2006年に世界に先駆けてケミカルバイオロジー研究会が発足し、2007年には(時限付ではあるが)ケミカルバイオロジーが科研費の細目に取り上げられるなど、今後の発展が期待されている。しかし、10年後にどのような花を咲かせることができるのか、冷静に分析すると問題点も浮かび上がってくる。例えば、ゲノム科学と比較すると、ヒトの全ゲノム解読という明確なゴール設定に比べて、化合物の数も生命現象も無限であるケミカルバイオロジーでは、何をゴールとすべきか難しい。また、ケミカルバイオロジーでは多種多様の物質を取り扱うので、DNAシーケンサーのように明確な技術開発目標が立て難い。この状況では、「化学と生物学を融合した新しいサイエンス」と言っても方向性を見出し得ない危惧もある。この点、物質をナノ(百万分の一ミリ)レベルで自在にコントロールすることを目指すナノテクノロジーは、ケミカルバイオロジーの手本になりうる。ナノテクは、物理・工学・化学横断的な極めて広い領域をカバーしており、量子効果のような基礎研究から、様々なデバイスの小型化・省エネ化に繋がる実用化研究まで幅広い。ナノテクのように、国民に夢を与える説明をする必要がある。ケミカルバイオロジー研究では、生命現象という根源的な課題にチャレンジすることも、あるいは創薬という目に見えるゴールに向かうこともできる。

ケミカルバイオロジストの育成
 夢のある新しい研究領域を推進するためには、人材育成が必須である。欧米では、化学とケミカルバイオロジーの融合を求めて、大学の学部名をDepartment of Chemistry and Chemical Biologyと変えたところも多い。有機化学は、もともと生物由来の物質を扱う学問であるから、ケミカルバイオロジーとは相性が良いはずである。一方、我が国では、旧来の学部(理学、工学、薬学、農学)にそれぞれ有機化学が重要な役割を果たしており、ケミカルバイオロジーと言うべき学問領域はそれぞれに行ってきたとの自負があるので、ケミカルバイオロジーを標榜する新しい学科や学部を設置しようとする動きに乏しい。我が国の大学では、生物系の研究室と化学系の研究室が独立であり、密接な共同研究を行っているとしても、研究者は化学か生物学か一方の専門家である。一人の頭脳に化学と生物学の相乗的思考回路を有するケミカルバイオロジストを育成するためには、新しい流れを取り入れたケミカルバイオロジーの教育システムを確立する必要がある。製薬会社では、「クスリ」を作るという大命題があるために、必然的に生物と化学の融合が必須であり、優秀なケミカルバイオロジストが必要とされている。大学の教育制度を整備し、企業でもアカデミアでも活躍できる優秀な人材が輩出されることを期待する。

長田 裕之(おさだ ひろゆき)
理化学研究所 主任研究員
専門:微生物化学、がん分子標的研究、ケミカルバイオロジー
長田裕之

(学術の動向 2007年 修正)